
肉がフライパンの上で焼き上がる食欲を刺激する匂い、
食器がカタカタとこすれ合いながら次々に運ばれて行き、
ドアの隙間から大勢の話し声がかすかにもれてくる。
真冬だから、コンクリートの床は底冷えし足は凍り付き、額には汗が滲んでいる。
壁に掛けられたなんの変哲もない時計にちらりと目をやると、
針はもう4時を指している、これでラストだ。
1月からホテルの厨房で働いている。
ここのホテルは全国的に有名な温泉街の外れに建ち、
週末ともなると何件もの結婚式が開かれ、こっちは朝から晩まで食器を洗っている。
食器を洗っている? 食器を洗っている。
数年前にメルボルンの有名レストランで腕を振るっていた自分の姿を思い出し、思わずやや長めのため息がでる。そんな自分に気づき、ここに来た目的をもう一度心の中で反芻し、食器を洗う手に力を入れる。
そう、食器を洗いながら。
そして、内線
「Mさんがフロントに来てるけど、手あいてる?」
M?
一瞬頭がフリーズする。Mは自分がここで働くきっかけになった男だ。今日会う約束はしていないはずだが、どうしたのだろう、そもそも彼がここに訪ねてくるのは初めてのことだ。
あいにく今は手が離せないので、そう答えると、フロントの電話番は
「荷物預かってるから、帰りによって」と言い残し、電話を切った。
ようやく仕事が終わり、帰りにフロントに寄ると、 そこには茶色い紙袋に入ったイタリア産の赤ワインのボトルとチョコ風味のフレーバービールが1本預けられていた。
いったい、どうしたんだ?
Mからの贈り物など初めてのことだ、いや、何かあるな、毒入りかもしれない、そんな疑心暗鬼を抱きながら、誘惑に負け、ありがたく頂いておくことにした。
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正直、自転車には一生分うんざりしている。 というのも、ある男達のくだらない話にのっかって、この年末から松山に住み始めたのだが、 本当にくだらない話だが、松山まで900 km、自転車で10日かけてやって来た。
腫れ上がったふくらはぎも、太ももも、だいたい落ち着きを取り戻した。
だからか、オフの日には歩くことが多い、松山という町は必要な物は徒歩圏内にあるし、歩くのにたのしい町らしい、あせらずゆっくりすればいい、そんな空気がある。
昔住んだメルボルンという町にはトラムがあり、おいしいラテで始まる朝があった。 自分をコーヒーの虜にし、この世界で生きて行く決意をさせたのもあの町だった。
この町にその面影を探していた。
the blue marble、この店に出会ったのは、空に雲一つない気持ちのいい日だった。
あおい地球、その名の通り、青を基調とした可愛い店作り、
その一方で、オーナーはカッピングジャッジの資格を持つ本物のバリスタ
豆を挽く音、挽きたての豆の香り、コーヒーが来るのを待つこの時間、
僕はあの町に帰ってきたかのような錯覚に落ち入った。